マティアス・ヴェルムケ
《意気地なし》
ド
キュメントとは、文章や証書を含む「記録」の事であり、研究・調査の経過を書き記したものや、その過程で用いられた証拠の品々を意味する。
福田恵《よそ者としての -》
ここに分類される作品群を更に二分化した際に見えてくるのは、「公」の視点から導き出したものと、「私」の視点から出発した私小説的なもの、この2点の異なるアプローチ方法ではないだろうか。前者は、移住にまつわる社会環境を検証し、歴史的背景を踏まえて積極的に社会に介入していく行為がドキュメンテーションによって記録されている作品である。それは、社会に潜む様々な現実を記録することで「伝え、広げ、問いかける」表現と言える。後者においては、個人の記憶や体験に由来する移住が、ドキュメンテーションによって表現されている。それは、自己のリアリティーを「留め、掘り下げ、問いかける」活動であるが、時には社会的見地で検証されるその行為によって、いつしか「私」から「公」に変換されてゆく。両者は、異なる方法を通して、ひとつの共有する問題を追究しているのである。さらにドキュメント型の特徴として言えるのは、概念ではなくリアリティーに基づいた検証及び記録を行うことで、問題に対して正面から取り組んだ作品群だということである。
ドキュメンテーションは、映像、写真、オブジェクト、ドローイング、テキストと様々なメディアを横断して表現されていたと言える。それは、一つの手法に捉われず、「表現したいこと」に最も適した媒体を模索した結果であろう。海を越えて実現された本プロジェクトと同様に、これらの作品群は、現代美術における表現方法の越境を体感させるものだったのではないだろうか。
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作家紹介
トーマス・アデバー、アンドレア・ツィマーマン、
エンプファングスハレ(コルビニアン・ベーム+ミヒャエル・グルーバー)
《仲間はどこから、仲間はどこへ-故郷の感覚-》
2003-2006
ドキュメント映像(81分44秒/ 16 : 9)
ゴミ収集の仕事に従事する男たちがそれぞれの故郷へと旅をする様子に、インタビューを織り交ぜた映像作品。このフィルムに登場する三人は、互いに異なるバックグラウンドを持つ。一人はロシア系の移民であり、ミュンヘンに住みそこを故郷と考えている。二人目は、トルコへ旅するトルコ人の中年男性。故郷に家を持つが、ドイツに慣れてしまった子どもたちを連れて帰ることが出来ないでいるという複雑な心境を語る。最後の男性は、ガーナに住む母親の元へドイツ人の娘婿と共に帰郷する様子を見せている。
ガストアルバイターと呼ばれるドイツの外国人労働者に焦点を当てた社会性に富む作品であるが、個々の内面に深く入り込むことにより、一般的な結論に達しがちな問題に、深みと広がりを持たせている。重要な問題提起を背景に持ち合わせながらも、ガストアルバイターの日常、海を渡るゴミ収集車、家族とのコミカルなやり取りなど、ロードムービーらしいエンターテイメントを忘れていない点は強調しておきたい。
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福田恵
《よそ者としての -》
2008
サイズ可変
ミクストメディア
不揃いなテレビモニターが5台、その背景には、滞在許可証をリフォーマットした用紙、コート、Tシャツ、ズボン、ネックレス等が掛けられている。それらには花が添えられており、モニターの中で語っている人物が身につけていることが確認できる。
作家は今回、ドイツ語を話すことができる、つまり、ドイツ国内である程度長期的な移住生活を体験している5ヵ国の移民者に対してインタビューを行った。映像はその5ヵ国がどの国であるかを明確にしないまま進行する。そして、そのインタビューは対話で行われているものの、設問部分はカットされているので、受け手が淡々と「ある花」について語るのを、鑑賞者はただ見るばかりである。
どうしてその花が自国の象徴となったのか。その花の特別な思い出とは何か。その匂いをまだ思い出せるかどうか。
「国花」というある一つの象徴を通して、受け手は徐々に自国を紐解き、また、その花にまつわる記憶を巡リ直すことで、受け手は徐々に自らの歴史を紐解いてゆくのである。
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ニコラス・グリマー
《移住者》
2008
各27.5x32.5cm 2枚
パネルに写真
ニコラス・グリマーは、過去に参加したグループ展において、ある時は、他のアーティストの出品作品にそっくりなモチーフが登場する漫画のワンシーンを展示し、またある時は、美術館で迷彩服に双眼鏡という格好をして風景画を覗き込む写真作品など、常に場のもつテーマやその読み解きを作品の大きな要素として制作してきた。
展示作品《移住者》では、「移住」というテーマが、現代における政治や経済のグローバリゼーションを連想させる事を逆手に取っている。そのような活動の余剰である「空き地」に生える野花をモチーフに、より肥沃な土地や住処を求めて移動する「移住」の原初的なイメージを提示した。種類の違う野花がせめぎ合い、陣地を取り合う様を写した2点の写真は、異なる視点の存在とその間にあるズレを指し示し、祖国と移住先の国、2つの視点を持つ移住者のパースペクティヴを表している。
一見すると何の変哲もない写真があるテーマの比喩として機能するのは、写真の読み解きに関するグリマーの卓越した感覚にあるといえる。
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パウリーナ・レオン
《結び目》/《対話》
2008
各29.7x21.0cm 14枚
エクアドル出身の移住者であるパウリーナ・レオンの、大西洋を横断するというプロジェクトは、ヨーロッパや南アメリカにおいて最も重要な歴史の検証である。南アメリカは大航海時代にヨーロッパに植民地化され、現在はアメリカの強い影響下にある。これは南アメリカの国々のアイデンティティの重要な部分を担っている。作家はこの歴史的な道程、あるいはその時間を追体験することにより、そのアイデンティティの再定義という一大プロジェクトに挑んでいる。会場には2007年12月から2008年1月にかけて行われた航海をテーマにした、絵と文字による5点のドローイングシリーズ《対話》と、結び目のドローング5点のシリーズ《結び目》が展示された。
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増山士郎
《MOVING (from Berlin to Hamburg)》
2008
サイズ可変
ビデオインスタレーション(32分)、荷物
郵便や宅配便で荷物を送付する際、その荷物はどのような経緯を辿るのか。これまで、我々がその行程を知る術はなかった。本作品において、増山士郎はビデオカメラがセットされた木箱をベルリンからハンブルクまで郵送し、その行程の一部始終を録画し、32分の長編ドキュメンテーション映像を完成させた。そこでは、これまでに知られることの無かったそのリアルな移動記録が初めて明らかにされている。
これは、もし輸送中に検査が行われればその荷物が目的地に届かない可能性を孕みながら進められたプロジェクトであった。実際に輸送に使用された木箱の中を確認すると、ビデオカメラと共に長期録画が可能なディバイスがケーブルにまみれ埋め込まれている。それは一見すると、爆弾が仕掛けられているように見受けられる。世界中でテロが起こっている昨今の状況下、本作品の移動が完全な誤解から大問題を引き起こす可能性をもっていたという確信犯的な行為でもある。
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大津達
《UFOを呼ぶ》
1995
ドキュメント映像/パフォーマンス(13分23秒)
屋外の重厚な彫刻、あるいは公共物である街灯をプライベート化し、自らの作品へ取り込んでしまう西野達。その西野が「西野達」ではなく「大津達」と名乗って参加した初の展覧会である。この「大津達」は、西野の名前交換プロジェクトによって獲得した2008年ヴァージョンのアーティストネームである。
大津達のドキュメント映像作品《UFOを呼ぶ》は、既成の概念にとらわれない、作家特有の世界観が漂う作品である。UFOは「未確認飛行物体」であるにもかかわらず、世界各国での目撃情報は未だ絶えることがない。そのUFOに向けて観衆とともにテレパシーを送るという作品である。一見、非生産的行為ともとれるが、その不確かな存在への問いかけは、ドイツ・カッセルを中心に、アメリカ、ルーマニアなどでも同時刻に行われ、観衆の心をとらえた。UFOという未来の飛行手段が、将来、人の往来、文化の移動を引き起こして、それが宇宙の果てまで及ぶことを想起させる作品である。
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ソフィア・ポンペリー
《記憶された部屋》
2008
400.0x300.0cm
124枚のカードによる(昔の)家の目録、壁面のスクラッチ
ソフィア・ポンペリーは展覧会の準備期間中、実際にベルリン郊外の両親の元から、市内の一人暮らしのアパートへ引っ越しを行った。その際に、自分の部屋を構成していた全ての持ち物を、124枚のドローイングに置き換え、そのカードから構成される目録を制作した。
会場の真っ白な壁に引っかき傷だけで描かれたのは、引っ越す前の部屋の様子である。引っ越しを終えた今は、すでに存在しない部屋の記憶/情報だけが、ドローイングカードの詰まった小さな箱と、消えてしまいそうな壁の傷跡によって留まっている。両親の元から独り立ちするという、誰しもが経験する日常的な出来事だが、それぞれにとって大事件である事を題材に、その記憶と現実の狭間に立ち現れる移ろいゆく現像を造形しようとした試みであった。
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カロリン・ヴァハター
《私は水曜日に縫い物教室に通っている》
2008
インスタレーション
映像、音声、布、型紙(着物)
カロリン・ヴァハターは展覧会のテーマであるマイグレーション(移民・移住・移動)を考察するために、ベルリンにすむ移民に実際に会って、彼らを知る事から始めた。ベルリンのノイケルン地区には、様々な年代の、異なった国々からの多くの移民が住んでいる。その地区で毎週水曜日に開かれる縫い物教室に通うなかで、この作品は制作された。映像と音声によって記録された縫い物教室での会話は、外国人特有のつたないドイツが飛び交っている。しかし、たわいもないおしゃべりと笑い声は、言葉を越えて、その和やかな雰囲気を伝えている。その映像に映し出されるのは、これ見よがしの移民の顔ではなく、ミシンの上でくるくると小気味よく回転する糸巻きや、テンポよく縫われる生地やミシンの糸を交換する女性の手のクローズアップである。縫い物教室に通う移民の女性達と展覧会のテーマに対するアプローチは、控え目だが繊細であり、特筆に値する。
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ラウル・ヴァルヒ
《エル エジド 2007》
2007
写真、コンクリートブロック
大きく引き延ばされた閑散とした風景は、スペインにある巨大な野菜のプランテーションの写真である。この巨大な野菜工場は、主にドイツの市場のために、日夜、大量の野菜を生産している。さらに、ここで働いている労働者の多くは、モロッコ等のアフリカ大陸から来た出稼ぎ労働者である。劣悪な労働環境と低賃金によって支えられている、安価な野菜は、ドイツのあらゆるスーパーマーケットで見る事ができる。しかし、ラウル・ヴァルヒの写真は、そうした事態をポリティカルコレクトネス(政治的正しさ)によって声高に主張するのではなく、レンズを通して丁寧に描写することに取り組んでいる。また写真のそばには、プランテーションで使われているコンクリートブロックを積み重ねた柱が立っている。経済と政治だけでなく、そこで働く出稼ぎ労働者の日常とその人生も含めて切り取ろうとする姿勢に、静かだか強い意志を感じる作品である。
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マティアス・ヴェルムケ
《意気地なし》
2008
280.0x460.0cm
チョーク、黒板
黒板に仕立てられた壁にチョークで書かれたのは、ありふれた日常のワンシーン。マティアス・ヴェルムケによる《意気地なし》は、作家本人である青年が立ち寄った屋台で遭遇した出来事を綴ったものである。カリーヴルスト(東ドイツ風ホットドッグ)を注文した青年は、店員から突然の値上げを知らされる。一瞬のとまどいの後、青年は背後に潜む原因を理解するものの、受け入れがたい事実にぶつけどころのない怒りを露にし、屋台を後にする。その時、店員から投げかけられた言葉が、表題のそれである。
この作品を読み解く際に、作家が東ドイツ出身であることを忘れてはならない。東西を分断する壁が崩れ、アイデンティティの崩壊と180度の社会のパラダイムシフトを体験したのは、ヴェルムケがほんの10歳前後のことである。どこにでも見られる身近なやりとりを元にした、コミカルさの漂う表現の中に、東西統一後の社会変革という重大なテーマを垣間見る事が出来るだろう。
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